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◆ その光が届く頃には ◆
【追憶のカクテルシリーズ】
発行日 令和7年 8月 7日 第1版
著 者 鎌田 佳秋
発行所 言の葉を綴じる杜
発売元 Research Concept Design Consult
ing Ilc.
出版事業部『言の葉を綴じる杜』
装丁・DTP SomethinGreat 砂原慶人
した。
中山美穂さん。 彼女自身が、多くの人にとっての、そして私にとっても、
かけがえのない『Shinin' Star』でした。
この拙い物語が、ささやかな祈りとなって、空の上の彼女に届くことを願っ
てやみません。 心からの追悼の意を込めて。
永遠の輝きに、祈りを。
又吉秋香
nly Shinin' Star』です。
久しぶりに聴いたその歌は、記憶の中にあるよりもずっと切なく、そして温
かく響きました。 遠い憧れの存在。言葉にすれば壊れてしまいそうな関係。
しかし、その輝きに見守られることで、自分自身もまた、前へ進む力を得る。
この普遍的なテーマから着想を得て、主人公・湊斗とヒロイン・星良の物語は
生まれました。
一方的に見つめるだけだった「星」が、やがて互いを照らし合う、かけがえ
のない光へと変わっていく。角松敏生さんの紡ぐ繊細な歌詞の世界と、中山美
穂さんの持つ唯一無二の透明感がなければ、この物語は決して生まれませんで
あとがき
最後まで、この長い物語にお付き合いいただき、誠にありがとうございまし
た。
この物語が生まれるきっかけは、先日、ひとつの星が空へと還っていった、
という報せでした。 女優として、そして歌手として、私たちの心を長きにわ
たって照らし続けてくれた中山美穂さんの訃報に触れた時、私は、吸い寄せら
れるように彼女の歌声を求めました。
角松敏生さんが作詞作曲を手掛け、彼女が歌った『You're My O
歩幅で隣を歩き、互いの道を照らし合う、確かな光。
遠い星の光が、何光年もの時を経て、ようやく地上に届くように。 二人の
想いもまた、様々な時間を経て、様々な壁を乗り越えて、今、確かに互いの心
に届いていた。
湊斗と星良は、もう何も言わなかった。 ただ、前を向いて、都会の光の中
を、未来へと続く道を、並んで歩き始めた。
その足取りは、驚くほどに、軽やかだった。
【完】
「星、見えないね」
星良が、少し残念そうに空を見上げて言った。
湊斗は、穏やかに微笑んで答えた。
「ううん、見えるよ」
彼は、隣を歩く星良に視線を移す。
「僕の隣で、今、一番明るい星が輝いてる」
その言葉に、星良は驚いたように目を見開き、そして、心の底から嬉しそう
に、花が咲くように笑った。
もう、彼女は手の届かない「Shinin' Star」ではない。 同じ
湊斗は、前を向いたまま言った。
「君という星に、照らされながら。そして、僕の言葉が、またどこかの誰か
を照らすかもしれない。…今は、そう信じられる」
「うん」
星良も、スクリーンを見つめたまま頷いた。
「私も、撮り続ける。あなたという、名前のない、でも、誰よりも強く輝く
星に、見守られながら」
二人はミニシアターを出た。 東京の夜空は、街の明かりに邪魔をされて、
星一つ見えなかった。
う」
「ううん」 星良は、優しく首を振った。
「私の方こそ、ありがとう。あなたがいなかったら、私は、この光を見つけ
られなかった。自分の光を、信じることができなかった」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。 それは、全ての言葉を必要としな
い、完璧な相互理解に満ちた時間だった。 恋人、友人、そんなありふれた言
葉では、到底括ることのできない関係。互いの魂の、最も深い場所で繋がり、
互いの存在そのものを肯定し合う、唯一無二の存在。
「僕は、これからもあの場所で、星を語り続ける」
た。 自分の言葉が、想いが、こんなにも美しく、力強い物語として、ここに
結晶している。彼女は、高城の言葉に屈しなかった。それどころか、二人で育
んだ物語の核を、さらに純粋な形で昇華させていた。
これは、星良が湊斗に宛てた、最も雄弁な手紙だった。
上映が終わり、場内がうっすらと明るくなる。湊斗が涙を拭おうとした時、
隣に人の気配がした。いつの間にか、星良がそこに座っていた。
「…ありがとう」
湊斗は、それ以外の言葉を見つけられなかった。
「僕の言葉を、想いを、こんな素敵な物語にしてくれて。本当に、ありがと
その惑星は、彼の光を受けて、内側からほのかな輝きを放ち始めていた。
光の精は悟る。 自分の光は、誰かと結ばれるためでも、何かを成し遂げる
ためでもなかった。ただ、そこに在ることで、誰かを照らしていた。そして、
その照らされた星が、また別の場所を、別の誰かを、照らしていく。光とは、
そうやって繋がっていくものなのだと。
光の精は、再び燃え始める。かつてないほど、強く、優しく。その光は、銀
河を越え、無数の「名前のない星」たちを、次々と照らし出していく。スク
リーンいっぱいに、壮大な光の連鎖が広がっていく。
エンドロールが流れ始めた時、湊斗の頬を、熱い涙が止めどなく伝ってい
『名前のない光』
物語が始まった。 それは、湊斗が知っている、あの孤独な光の精の物語。
しかし、高城が指摘したような、わかりやすい「愛」や「目的」が加えられて
いるわけではなかった。光の精は、ただひたすらに宇宙を旅する。自らの存在
意義に悩みながら。
物語のクライマックス。 光の精は、ある暗黒星雲の中で、力尽きようとし
ていた。自分の光は、誰にも届かず、何の意味もなかったのだと絶望した、そ
の時。彼の光が、すぐそばにあった、今まで気づかなかったほど小さな、名前
のない惑星を照らし出していることに気づく。
を上映したという、原点ともいえる場所。
ドアを開けると、そこには誰もおらず、スクリーンだけがぼんやりと白く
光っていた。一番見やすい真ん中の席に、ぽつんと一つだけ、『藍沢湊斗様』
と書かれたプレートが置かれている。
観客は、世界でただ一人。 湊斗は、深く息を吸い込み、その席に腰を下ろ
した。
やがて、客席の明かりがゆっくりと消え、完全な闇が訪れる。それは、あの
プラネタリウムの闇によく似ていた。スクリーンに、タイトルが映し出され
る。
に、見てもらいたいの」
その言葉は、どんな星の光よりも、強く、温かく、湊斗の心の最も深い場所
に届いた。
最終章 僕たちの光
数日後、湊斗は再び東京行きの電車に乗っていた。 星良が指定した場所
は、都心から少し離れた、古くから続く商店街の一角にある、小さなミニシア
ターだった。客席は五十ほどしかない、彼女がインディーズ時代に何度も作品
「…ごめん」
湊斗の口から、ようやく本当の言葉が漏れた。
「ごめんなさい。僕は、間違ってた」
彼は、試写会の日以来、初めて、真っ直ぐに星良の顔を見た。その瞳は、少
し潤んでいたが、そこには確かな力が満ちていた。
「完成したんだ。私の、映画」
星良は、そう言うと、ふわりと微笑んだ。
「高城さんとは、少し違うやり方でね。…だから、見てほしい。コンサルタ
ントとしてでも、星の専門家としてでもない。私が、今、一番見てほしい人
彼女の声は、静かなドームに震えながら響き渡った。
「答えて、藍沢くん。あなたは、この美しい暗闇の中に、一生隠れているつ
もり?」
その言葉は、まるで超新星爆発のようだった。 湊斗が自分を守るために築
き上げた、臆病と自己憐憫の壁が、音を立てて砕け散る。
自分は、何という思い違いをしていたのだろう。 彼女を守るために身を引
いたつもりでいた。しかし、それは、ただ自分が傷つくことから逃げていただ
けの、卑劣な自己満足ではなかったか。彼女が、たった一人で戦っている時
に、自分は安全な場所から、彼女を信じることすらしなかった。
に必要なのは、高城さんの言う『ヒットの法則』なんかじゃない。あなたの見
てる、その光なの」
彼女の言葉の一つ一つが、湊斗が築いた固い殻を、外側から激しく叩く。
「あの『名前のない星』の話をしてくれた時のこと、覚えてる? 誰に知ら
れなくても、そこで静かに燃え続けてる星があるって。あの言葉に、私がどれ
だけ救われたか、あなた、わかってないでしょう」
「……」
「なのに、あなた自身が、自分のことを『小さな光』だなんて言うの? あ
なたが、高城さんと同じ目で、自分を見てどうするの!?」
「高城さんの言葉が、そんなに大事? あの人が言うことが、世界のすべて
なの?」
「……」
「あの後、私は高城さんと、すごく喧嘩した」
星良は、一度言葉を切り、息を吸った。
「あなたの言葉から生まれた、あの物語の核は、絶対に譲れないって。彼
は、商業的な成功しか見ていない。星を、金儲けの道具としか見てない。で
も、あなたは違う。あなたは、星そのものを見てる。その光が、どれだけ遠く
から、どれだけ時間をかけて、私たちに届いているかを知っている。私の物語
あなたは私を避けてる。どうして?」
問い詰められて、湊斗は観念したように口を開いた。
「僕には、君の世界は眩しすぎるんだ。僕みたいな人間の言葉は、君の才能
を小さなものにしてしまう。高城さんの言う通りだ。僕は…君の隣にいるべき
じゃない」
それは、本心だった。自分を納得させるために、何度も心の中で繰り返した
言葉だった。
しかし、星良は、その言葉を聞いても、ひるまなかった。それどころか、彼
女は、まるで怒っているかのように、強い口調で言った。
彼女は、静かに立ち上がると、まっすぐに湊斗の元へと歩いてきた。あの夜
のような儚さはない。その瞳には、何かを決意した者の、揺るぎない光が宿っ
ていた。
「どうして、連絡をくれないの」
単刀直入な言葉だった。
「…ごめん。最近、少し忙しくて」
湊斗は、視線を合わせられずに、ありきたりな嘘をついた。
「嘘」 星良は、その一言で、湊斗の脆い言い訳を切り捨てた。
「あなたは、嘘をつく時、そうやって目を逸らす。…あの試写会の日から、
えなかった。安住の地だったはずのこの場所は、いつの間にか、自分を閉じ込
めるための、居心地の悪い檻に変わっていた。
その日も、最後の上映が終わった。 観客が一人、また一人と去っていく。
湊斗は、その流れをぼんやりと眺めていた。早くこの空間を閉じて、独りにな
りたい。そう思った時、彼の視線は、ある一点に釘付けになった。
見間違えるはずがない。 最後列の、一番端の席。あの夜と、全く同じ場所
に、星良が座っていた。
湊斗の心臓が、氷水に浸されたように冷たくなった。逃げたい。しかし、ど
こにも逃げ場はない。
斗は星良からのメッセージに一度も返信できずにいた。スマートフォンの画面
に表示される彼女の名前を見るたび、胸が締め付けられ、高城の冷たい声が耳
の奥で響く。
『こんな小さな星の光じゃ、ダメなんだよ』
自分の存在が、彼女の才能を蝕む毒になる。その恐怖が、湊斗の指を鉛のよ
うに重くしていた。
プラネタリウムの仕事は、機械的にこなした。星空を映し、台本通りの解説
を語る。けれど、その言葉には、以前のような熱がこもらなかった。あれほど
愛していた星々が、今はただ、遠くで冷たく光るだけの、無機質な点にしか見
かった。
自分の言葉は、彼女を傷つけただけかもしれない。 自分は、彼女の世界
に、踏み込むべきではなかったのだ。
湊斗は、ゆっくりと、しかし確実に、再び自分の殻へと閉じこもり始めてい
た。光に触れた指先が、火傷をしたかのように、ひどく痛んでいた。
第五章 砕け散った星屑
時間は、残酷なほどにいつも通り流れた。 東京から帰ってきて一週間、湊
東京の、人の波。 その中で、湊斗は再び孤独だった。 ガラス越しに見て
いた世界に、ほんの少しだけ足を踏み入れた結果が、これだった。自分は、彼
女の輝きを増すどころか、彼女の才能を「小さなもの」にしてしまう毒でしか
ないのではないか。
あの、二人きりだったプラネタリウムの夜が、あまりにも遠い、手の届かな
い星空のように思えた。
アパートに帰り着いた湊斗は、スマートフォンを机の上に置いたまま、触る
ことができなかった。すぐに、星良から『今日はありがとう。ごめん、ちゃん
と話せなくて』というメッセージが届いたが、何と返信していいかわからな
プラネタリウム、という言葉に、湊斗の心臓が冷たく軋んだ。 高城は、一
度も湊斗の方を見なかった。まるで、彼がそこにいないかのように。
湊斗は、完全に部外者だった。 ここは、星の光の届かない、人工の光が支
配する世界。自分は、この場所にいてはいけない人間なのだ。 いつかの書店
のように、棚の陰に隠れたい。いや、それ以上に、今すぐこの場から消えてし
まいたかった。
試写会が終わると、すぐに打ち合わせが始まった。湊斗は、誰に挨拶をする
こともなく、そっとスタジオを抜け出した。星良が、彼の不在に気づいたよう
な気配がしたが、振り向くことはできなかった。
目指す上では、間違いなく「正論」なのだろう。だが、その刃は、星良が、そ
して湊斗が大切に紡いできた物語の、最も繊細で純粋な部分を、容赦なく切り
刻んでいく。
「でも、この物語のテーマは、そういうものじゃなくて…」
星良が、か細い声で反論しようとする。
「それはわかる。わかるが、アートと自己満足は違う。君の才能は、もっと
大きな場所で輝くべきだ。こんな小さな星の光じゃ、ダメなんだよ」
高城はそう言うと、スクリーンを指さした。「このシーンの光は、プラネタ
リウムの解説じゃないんだから。もっとドラマチックにしろ」
「どう…だったかな?」
高城は、腕を組んだまま数秒間黙り込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「美しい。とても詩的だ。…だが、これでは届かない」
その一言で、スタジオの空気が凍り付いた。
「詩的すぎて、物語が独りよがりになっている。観客は、君の感傷に付き合
うほど暇じゃない。もっとエンターテイメントにしないと。この光の精は、な
ぜ旅をする?もっとわかりやすい動機、例えば、誰かとの『愛』のためとか、
そういうものがないと、誰も共感しない」
高城の言葉は、的確で、鋭利な刃物のようだった。それは、商業的な成功を
柔らかな物腰と、人を値踏みするような鋭い視線。高城だった。彼は湊斗に
にこやかに握手を求めてきたが、その手は少しも温かくなかった。
スタジオの照明が落とされ、スクリーンに映像が流れ始める。 それは、紛
れもなく湊斗が語った神話や宇宙の知識が血肉となった、美しくも孤独な光の
物語だった。自分の言葉が、こんなにも詩的な映像になるのか。湊斗は胸が熱
くなるのを感じた。エンドロールに『Special Thanks 藍沢湊
斗』という文字を見つけた時、思わず涙が滲んだ。
上映が終わり、スタジオが明るくなる。星良は、少し不安そうな、しかし期
待に満ちた目で高城を見た。
「藍沢くん、来てくれてありがとう!」
スタジオの入り口で、星良が彼を見つけて駆け寄ってきた。その笑顔に、湊
斗の不安は少しだけ和らぐ。
「こちら、今回の作品でお世話になっている、友人の藍沢さん。星の専門家
なの」
星良は、スタジオにいた数人のスタッフに湊斗を紹介した。皆、軽く会釈を
返してくれるが、その視線はどこか、部外者を見るそれだった。
そして、その中に、彼がいた。
「やあ、星良。彼が、君が言ってた『先生』かい?」
そのメッセージが届いたのは、初夏の日差しが眩しくなり始めた頃だった。
湊斗は、心臓が跳ね上がるのを感じた。自分の言葉が、彼女の世界でどんな映
像になったのか。それを見られるだけでなく、「見てほしい」と彼女自身が
言ってくれている。
湊斗は、迷うことなく「行きます」と返信した。
試写会の会場は、東京の、いかにも業界人らしい洗練された人々が行き交う
街にある、小さなスタジオだった。海沿いののんびりとした街から出てきた湊
斗は、その場にいるだけで、まるで違う惑星に降り立ってしまったかのような
居心地の悪さを感じていた。
た。星良からのメッセージに胸を躍らせる瞬間もあれば、ふと、あのプロデ
ューサー「高城」の影を思い出しては、冷たい不安に心を覆われることもあっ
た。
それでも、彼女との交流は続いた。湊斗の語る星の知識は、星良の物語に確
かな輪郭と深みを与えていった。彼女の脚本は、湊斗の言葉を得て、みるみる
うちに輝きを増していく。そのプロセスに携われることは、湊斗にとって何物
にも代えがたい喜びだった。
『今度、ラッシュ版(未完成の映像)の小さな試写会をやるんだ。藍沢くん
にも、見てほしい』
喜びと、不安。 手に入れたはずの光に、そっと影が落ち始めている。
その光に触れたいと願うほどに、その光が持つ、自分には計り知れない熱量
と、その周りにある闇を意識せざるを得ない。
湊斗は、遠ざかっていく彼女の後ろ姿を、複雑な想いを抱えたまま、ただ
黙って見送っていた。
第四章 届かない光、見えない壁
あの日以来、湊斗の心は晴れと曇りをめまぐるしく繰り返す空のようだっ
彼女は、言い訳のように付け加えた。高城。その名前には聞き覚えがあっ
た。業界でも有名な、ヒットメーカーだ。そして、星良の公私にわたるパート
ナーではないかと、ゴシップ誌で噂されていた男。
急に、二人の間に見えない壁が再び現れたような気がした。自分たちがいる
この穏やかな海辺のカフェと、彼女が電話の向こうで戦っている世界との、圧
倒的な断絶。
カフェを出て、別れ際に星良は「藍沢くんと話してると、本当に落ち着く
な。ありがとう」と、心からの笑顔を見せた。湊斗はその笑顔に救われる一方
で、先ほどの電話の件が、小さな棘のように心に刺さったままだった。
た。テラス席の隅に行き、声を潜めて話し始める。相手に気を遣うような、少
し強張った声。
湊斗は、コーヒーカップを手に取ったまま、動けなくなった。 彼女が話し
ているのは、きっと、彼女が本来いるべき世界の人間だ。そこは、湊斗の知ら
ない、複雑で、華やかで、そして厳しい世界。
数分後、彼女は「ごめんね、仕事の電話」と言って席に戻ってきた。その笑
顔は、先ほどまでの屈託のないものとは、どこか違って見えた。
「高城さん…っていうプロデューサーが、私の担当で。ちょっと、厳しい人
でね」
女は、目を輝かせながら湊斗の言葉に耳を傾け、熱心にメモを取っている。
憧れの存在だった彼女と、対等な立場でクリエイティブな話をしている。そ
の事実が、湊斗に大きな自信と幸福感を与えていた。この時間が、永遠に続け
ばいいのに。
そう思い始めた、その時だった。 テーブルの上に置かれていた星良のス
マートフォンが、静かに振動した。画面に表示された名前に、彼女の表情が、
ふっと曇るのを湊斗は見逃さなかった。
「ごめん、これ…出ないと」
彼女は一言断ると、少し焦ったようにスマートフォンを手に取り、席を立っ
日後、彼女から再び会う約束を取り付けた。
再会の場所は、海沿いにある、日当たりの良いカフェだった。昼間の光の下
で会う彼女は、夜のプラネタリウムで見た儚い姿とは違い、快活なオーラを
放っていた。
「この間の神話、すごく助かった。おかげで、主人公のキャラクターが固
まったよ」
星良は、嬉しそうにノートPCを開き、湊斗にプロットを説明し始めた。そ
れは、ある孤独な光の精が、自らの光の意味を探して旅をする物語だった。湊
斗は、星の専門家として、科学的な見地からいくつかのアドバイスをした。彼
いった短い言葉がほとんど。それでも、その一言一句が、湊斗のモノクロだっ
た日常に、鮮やかな色彩を与えていった。
『今、脚本で行き詰まってる。何かヒントになるような、面白い星の神話は
ない?』
そんなメッセージが届いたのは、数日後のことだった。湊斗は自分の知識が
彼女の役に立てることが嬉しくて、何時間もかけて、様々な神話の中から彼女
の新作のテーマに合いそうなものを探し出し、長文のメッセージを送った。
『すごい!ありがとう!読んでるだけでイメージが湧いてくる!』
すぐに返ってきた喜びの言葉に、湊斗の心は舞い上がった。そして、その数
た。
「はい。…僕でよければ、いつでも」
そう答えるのが、精一杯だった。
星良の車が走り去り、完全にその姿が見えなくなっても、湊斗はしばらくそ
の場から動けなかった。手の中にある小さな紙が、信じられないほどの熱を
持っているように感じた。
その日を境に、湊斗の世界は色を変えた。 彼のスマートフォンは、もはや
遠い星の活躍を一方的に眺めるだけの窓ではなくなった。星良との、ささやか
なメッセージのやり取り。送られてくるのは、「おはよう」や「お疲れ様」と
までの静寂とは違う、生命感のあるリズムを刻んでいる。もう、二人の間に気
まずさや緊張はなかった。同じ夜を過ごし、同じ秘密を分かち合ったことで、
目に見えない確かな絆が生まれていた。
「藍沢くん、本当にありがとう。私、もう少し頑張れそう」
天文台の駐車場で、星良は自分の車に乗り込む前に振り返った。その顔は、
来た時とは比べ物にならないほど、晴れやかだった。
「これ、私の連絡先。もしよかったら、また星の話、聞かせてほしいな」
差し出された小さな紙片を、湊斗はまるで聖遺物でも受け取るかのように、
そっと両手で受け取った。これが夢ではないことを証明する、唯一の物証だっ
プラネタリウムの固く重い扉を開けると、ひやりとした夜明け前の空気が二
人を包んだ。東の空が、インクを滲ませたように白み始めている。夜の主役
だった星々は、その淡い光の侵食に抗うように最後の輝きを放ち、やがて一
つ、また一つと姿を消していく。
「…綺麗」 隣で星良がぽつりと呟いた。
「星が消える瞬間って、こんなに静かで、優しいんだね」
「夜が、星を還していくんです。また次の夜、輝けるように」
湊斗は、まるで台本を読むように自然に答えていた。
二人はどちらからともなく、防波堤に沿って歩き始めた。波の音が、先ほど
た。互いの心の輪郭を、そっと確かめ合うような、温かい沈黙だった。
遠い星の光が、何光年もかけて地球に届くように。 二人の心の光が、今、
ほんの数メートルの距離を越えて、確かに互いの心に届き始めていた。
湊斗は、この夜が明けるのが、少しだけ怖いと思った。そして、それ以上
に、この夜が明けた先にある「明日」を、生まれて初めて、待ち遠しいと感じ
ている自分に気づいていた。
第三章 色づく世界と小さな影
「僕も、同じですよ」
ぽつりと、言葉が漏れた。
「僕も、ずっとわからなかった。このプラネタリウムの外側にある世界が、
ずっと怖かった。だから、ここに閉じこもって、星だけを見ていればいいって
…そう思ってました」
星良が、驚いたように湊斗の顔を見る。
「でも、今、少しだけ違う気がします。星は、ただ見上げるだけじゃなくて
…誰かのために、灯すこともできるのかもしれないって」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。 それはもう、孤独な沈黙ではなかっ
分との間で、溺れそうになってて」
「……」
「ここに来て、あなたの解説を聞いて、そして、この星を見て…少しだけ、
息ができた気がする。ありがとう、藍沢くん」
それは、湊斗が初めて触れた、彼女の本当の弱さだった。ガラス越しに、画
面越しに見ていた完璧な「星」の、人間らしい素顔だった。遠い憧れの存在
が、今、すぐ目の前で、自分と同じように迷い、苦しんでいる。
湊斗は、そっとコンソールを操作し、満天の星空をゆっくりと回転させた。
まるで、巨大な揺りかごのように。
女は俯き、両手で顔を覆っていた。やがて、その指の間から、嗚咽が漏れ始め
た。
湊斗は何も言えず、ただ、名前のない星を照らし続けた。ここは、泣いても
いい場所だ。この暗闇と静寂は、そのためにあるのだから。
しばらくして、顔を上げた星良の瞳は、涙で濡れていた。
「ごめんなさい。…なんだか、安心しちゃって」
彼女は、無理に笑顔を作ろうとして、失敗した。
「最近、わからなくなってたの。自分が何を撮りたいのか。何のために、光
を追いかけてるのか。みんなが求める『星良』っていうイメージと、本当の自
は、肉眼ではほとんど見えない、微かな光点が一つだけあった。
「これは、りゅう座の方向にある、ある恒星です。学術的なカタログ名はあ
りますが、神話に出てくるような名前はありません。明るさも、10等級。肉
眼では絶対に見えないし、小さな望遠鏡でも、見つけるのは難しいでしょう」
「……」
「でも、この星は、確かにそこに存在しています。誰かに見つけてもらえな
くても、名前を呼ばれなくても、何億年も前から、そこで静かに燃え続けてい
る。宇宙には、そんな星の方が、ずっとずっと多いんです」
湊斗の言葉を聞きながら、星良の肩が、微かに震えているのがわかった。彼
湊斗が尋ねると、星良は少し考えてから、ぽつりと言った。
「…名前のない星」
「名前のない、星…ですか?」
意表を突かれた質問に、湊斗は聞き返した。
「うん。有名じゃなくていい。誰にも知られてなくてもいい。ただ、そこに
静かにいるだけの星。そんな星って、あるのかなって」
その言葉に、湊斗は胸の奥を突かれたような気がした。彼女は、誰よりも名
前のある世界で生きている。その彼女が、名前のないものを求めている。
湊斗はコンソールを操作し、ある一点を静かにズームアップした。そこに
ムを横断する。
「これが、僕たちの天の川銀河。僕たちの太陽系も、この中の、本当にちっ
ぽけな一点にすぎません。僕たちが普段見ている星のほとんどが、この銀河の
仲間です」
星良は、まるで子供のように、首を後ろに倒して、ただ黙って光の川を見上
げていた。その横顔を、湊斗はコンソールの薄明かり越しに盗み見る。SNS
で見る、自信に満ちた映像作家の顔ではない。都会の光の中で見失っていた何
かを、必死で探しているような、切実な表情だった。
「何か、見たい星はありますか?」
違った。観客席にたった一人、星良がいる。その事実が、星の一つ一つに、こ
れまで感じたことのない重力と意味を与えているようだった。
「わ…」
星良の、小さな感嘆の声がドームに響く。 湊斗はマイクのスイッチを入れ
ず、地声で語り始めた。その声は、もう震えてはいなかった。自分の領域に、
大切な客人を招き入れた主人のように、穏やかで、少しだけ誇らしかった。
「今夜は、街の明かりも、雲もありません。ここにあるのは、宇宙と、あな
ただけです」
湊斗はまず、天の川を映し出した。無数の光の粒が、巨大な帯となってドー
彼の声に、星良がはっと顔を上げる。
「少しだけ、ですよ。僕が、特別に今夜の星空をご案内します」
二人きりのプラネタリウム。湊斗はゆっくりとコンソールに戻り、館内の照
明を完全に落とした。再び世界が漆黒に包まれ、静寂が訪れる。
それは、湊斗の守り続けた静寂とは、全く意味の違う静寂だった。これから
何かが始まる、圧倒的な予感に満ちた静寂だった。
湊斗は、ゆっくりとコンソールのフェーダーを上げた。 無数の星々が、
しゅるしゅると音を立てるようにして、漆黒の天球に現れる。それは、湊斗が
いつも見ている、そして人々に見せている星空のはずだった。だが、今夜は
んです」
見つめられて、湊斗は息をのむ。彼女の瞳は、まるで助けを求める迷子のよ
うだった。華やかな世界の中心で、誰よりも強く輝いているはずの彼女が、
今、目の前で途方に暮れている。
規則。立場。自分の臆病な心。様々なものが、ダメだと叫んでいる。 しか
し、目の前の「星」が、初めて自分に助けを求めている。
湊斗は、数秒間、固く目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開けると、生ま
れて初めて、自分の内側にある壁を、自らの意志で壊す決意をした。
「……わかりました」
の日の光景が鮮明に焼き付いている。だが、それを肯定も否定もできず、曖昧
に口ごもるしかなかった。
蛍の光が、最後のフレーズを奏で終える。いよいよ、現実に戻らなければな
らない時間だ。
「お客様、申し訳ありませんが、閉館の…」
「もう少しだけ」
湊斗の言葉を遮るように、星良が言った。その声には、懇願するような響き
があった。
「もう少しだけ、ここにいさせてもらえませんか。ここの星を、見ていたい
う、確かな温度を持った言葉として、湊斗の心の壁にじんわりと染み込んでい
く。
「…ありがとう、ございます」
職員としての体裁をなんとか取り繕い、一礼するのが精一杯だった。
「昔、大学で一度だけ話したの、覚えてる?」
「え…」
「打ち上げの時。藍沢くん、酔っ払った先輩に絡まれてた私を、さりげなく
助けてくれた。…まあ、覚えてないか」
星良は少し寂しそうに笑った。もちろん、覚えている。湊斗の脳裏には、あ
彼女の名前を呼ぼうとして、声がかすれて消えた。
「なんで、ここに…」
やっとのことで絞り出した声は、自分でも情けないほどに震えていた。
「んー…南の星を、探しに、かな」
彼女はそう言うと、悪戯っぽく片目をつぶせた。
「あなたの解説、客席で聞いてた。すごく、良かった。あなたの言葉、なん
だか本当に宇宙を旅してるみたいだった。星への愛が、すごく伝わってきた
よ」
真っ直ぐな言葉だった。それは、SNSに溢れる無責任な賞賛とは全く違
星良が、いる。
湊斗は、声も出せず、ただ固まっていた。思考が真っ白に染まり、手足の感
覚が消えていく。これは現実だろうか。疲れが見せた幻覚ではないのか。
彼女――星良は、少し困ったように笑いながら立ち上がると、湊斗の前まで
歩いてきた。フードを外し、マスクを少しだけずらす。そこに現れたのは、メ
ディアで見せる完璧な微笑みではなく、どこか疲労の色が滲んだ、素顔に近い
表情だった。
「ごめん、驚かせたよね。やっぱり、あなただったんだ」
「み、な……」
に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。
マスクの上からでもわかる、大きな瞳。 フードの隙間からこぼれる、見覚
えのある髪の色。
時が、止まった。 いや、湊斗の心臓だけが、あり得ない速度で時を刻み始
めた。ドク、ドク、と耳の奥で鳴り響く鼓動が、他のすべての音を消し去って
いく。
「……もしかして、藍沢くん?」
聞き間違えるはずのない、声。 画面の中からしか聞こえてこなかった声
が、今、物理的な振動として鼓膜を揺らす。目の前にいる。数メートル先に、
かごの中で、静かな眠りを貪るように日々を過ごしていた。
その日も、最後の解説を終え、客人がはけていくのを見送っていた。閉館を
知らせるアナウンスが流れ、館内に蛍の光が響き渡る。湊斗がコンソールを落
とそうと手を伸ばした、その時だった。
ドームの最後列、一番端の席に、まだ人影が一つ残っていることに気づい
た。 深くフードをかぶり、マスクをしているため、顔はほとんど見えない。
閉館時間に気づかず、寝てしまったのだろうか。
「お客様、申し訳ありません。本日の営業は…」
声をかけながら、ゆっくりと客席に近づいていく。その人影は、湊斗の接近
そう、改めて心に誓う。それが、自分と彼女との、唯一正しくて、美しい距
離なのだと信じて。
第二章 予期せぬ来訪者
季節が一つ巡り、街が春の柔らかな光に包まれ始めた頃。 あの日以来、湊
斗はより一層、自分の心の周りに壁を築いていた。星良の活躍を知らせるニ
ュースは、意識的に避けるようになった。見なければ、心は揺れない。知らな
ければ、痛むこともない。そう自分に言い聞かせ、プラネタリウムという揺り
た途端、それまで保たれていた心地よい関係が、音を立てて崩れていった。言
葉は、時に取り返しのつかない刃物になる。そう学んで以来、湊斗は自分の心
に分厚いガラスの蓋をすることを覚えたのだ。
帰り道、助手席に置いた洋書がやけに重く感じた。 アパートに戻り、買っ
てきた本を本棚の定位置に収める。窓の外は、すでに夕闇に包まれ、一番星が
瞬き始めていた。
あの輝きに、手を伸ばしてはいけない。 言葉にすれば、きっとこの静けさ
は壊れてしまう。 僕にできるのは、このプラネタリウムという小さな天球儀
の内側から、遠い星の光を見つめ続けることだけだ。
やがて、「お疲れ様でしたー」という明るい声が聞こえ、一行が席を立つ気
配がした。華やかな空気の塊が遠ざかっていく。湊斗は、彼らが完全に去った
であろう時間を待って、恐る恐る通路へと顔を出した。
カフェのテーブルには、空になったコーヒーカップが二つ。彼女がいた場所
には、もう誰もいない。けれど、そこだけが、まだ彼女の放った光の残滓を留
めているように見えた。
床に落ちた本を拾い集めながら、湊斗は自分の不甲斐なさに眩暈(めまい)
がした。ただ見かけただけ。それだけなのに、この有様だ。
大学時代に、一度だけ経験した苦い恋を思い出す。自分の気持ちを言葉にし
る。
まずい。
目が合う、と思った瞬間、湊斗は心臓を鷲掴みにされたような衝撃で、棚の
奥へと体を滑り込ませた。背中を本棚に強く打ち付ける。数冊の本が、がさり
と音を立てて床に落ちた。静かな店内に、その音は思いのほか大きく響いた。
「……?」
星良の、訝(いぶか)しむような気配がした。スタッフとの会話が、一瞬途
切れる。湊斗は、時間が止まったかのような感覚の中で、ただひたすらに息を
潜めた。どうか、気づかないでくれ。どうか、このまま。
して、的確な言葉を選びながら丁寧に答えている。その横顔は、ひどくプロフ
ェッショナルで、美しかった。
人混みのなかで、偶然見つけてしまった輝き。 湊斗は、咄嗟に専門書の棚
の陰に身を隠した。声をかけるなんて、できるはずがない。ここは、彼女の仕
事場だ。僕のような人間が、その神聖な空間を乱すことなど許されない。彼は
ただ、本の背表紙の隙間から、息を殺して彼女を見つめることしかできなかっ
た。
インタビューが終わりに近づいたのか、星良がふっと息をつき、リラックス
したようにあたりを見渡した。その視線が、ゆっくりとこちらに向かってく
た、その時だった。
書店のカフェスペースが、やけに明るく、華やいだ空気に満ちている。何か
の撮影だろうか、数人のスタッフが機材を囲み、その中心に一人の女性が座っ
ていた。
――星良。
心臓が、大きく跳ねた。 雑誌のインタビューを受けているらしかった。湊
斗の知る、SNSの中の華やかな彼女ではない。白いシャツにジーンズという
ラフな服装なのに、彼女がそこにいるだけで、周囲の空気が凛と張り詰めてい
るように見えた。インタビュアーの質問に、時折、真剣な表情で考え込み、そ
――星良も、こうして僕を見ていたのだろうか。
ふと、そんな考えがよぎる。大学時代、一度だけ一緒になったグループ課
題。発表を終えた後、打ち上げの居酒屋で少し離れた席に座っていた彼女が、
静かにこちらを見ていたような気がした。騒がしい輪の中心にいながら、ふと
見せたその表情には、どこか寂しさの色が滲んでいた。あれは、僕の思い過ご
しだったのか。確かめる術は、もうない。
その週末、湊斗は隣の市にある大型書店まで足を延ばした。目当ては、最近
出版されたばかりの重力波に関する洋書だ。専門書コーナーの奥まった場所
で、彼は目的の本を見つけ、安堵のため息をついた。会計をしようと通路へ出
り、プラネタリウムへと向かう。この繰り返しが、彼の日常のすべてだった。
プラネタリウムの解説員控室は、ドームの脇に設けられたガラス張りの小部
屋だ。そこから、天文台の入り口へと続くスロープや、併設されたカフェのテ
ラス席が見渡せる。解説の合間、湊斗はそのガラス越しに外の世界を眺めるの
が癖だった。
楽しそうに談笑する家族連れ。寄り添って同じ飲み物を飲むカップル。彼ら
と自分との間には、一枚の透明なガラスがあるだけなのに、その隔たりはまる
で銀河の距離ほどに感じられた。誰も、この小部屋の中で息をひそめる自分に
気づくことはない。まるで、存在しないかのように。
に触れるたび、胸の奥がちりちりと焦げるように痛む。
君の輝きが、僕の心に届く頃には、君はもう、もっとずっと先の世界を走っ
ているのだろう。
潮風が、僕の頬を冷たく撫でていった。僕はコートの襟を立て、星の光が降
り注ぐ、静かな夜道を歩き始めた。
翌日も、湊斗の世界は昨日と寸分違わぬ軌道を描いていた。 朝、海からの
ぼる淡い光で目覚め、古びたアパートの窓を開けて潮の香りを吸い込む。壁一
面を埋め尽くす本棚には、天文学の専門書や星の神話に関する古書が、彼の生
真面目さを表すように整然と並んでいた。コーヒーを淹れ、トーストをかじ
うのだ。そっと画面を閉じ、代わりに本物の夜空を見上げる。
都会に比べれば、この街の空は正直だ。冬の澄んだ空気の中、シリウスが青
白い光を放って、僕をまっすぐに見ているような気がした。
見上げている星の光は、いつだって過去の姿だ。 シリウスの光が、8.6
光年という気の遠くなるような距離を旅して、今、僕の目に届いている。僕が
見ているのは、8年半前のシリウスの輝き。
星良。君も、僕にとってそんな星なのかもしれない。
雑誌のページ、スマートフォンの画面、テレビの向こう側。君が放った輝き
が、様々な媒体を通り抜け、時間差で僕というちっぽけな惑星に届く。その光
かんだように笑っていた。若手映像作家に贈られる、権威ある賞の授賞式だ。
何千もの「いいね」と、彼女の才能を讃えるコメントが滝のように流れてい
く。
大学の同級生。正確に言えば、数ある講義の中で一度だけ、同じグループに
なったことがあるだけの相手。あの頃から彼女は、自分の信じる表現に対して
一切の妥協をしない、燃えるような瞳をしていた。卒業後、あっという間にそ
の才能を開花させ、今や僕のような人間からは、最も遠い場所にいる。
僕は、そのまばゆい投稿に「いいね」を押すことができない。無数の賞賛の
中に、僕のささやかな1クリックを紛れ込ませる資格がないように思えてしま
す機械《プラネタリウム》だけが残された。巨大な機械の冷却ファンが唸る、
低い音。それだけが、この静寂の中で唯一の現実だった。
後片付けを終え、裏口から外へ出る。海沿いの街に、湿った夜風が吹き抜け
ていた。防波堤に寄せる波の音が、規則正しく闇に響く。僕はポケットからス
マートフォンを取り出し、無意識にSNSのアプリを開いた。ブックマークし
てある、一つのアカウント。
――星良(せいら)。
画面には、数時間前に投稿されたばかりの写真が映し出されていた。華やか
なドレスに身を包み、有名な映画監督や俳優たちに囲まれて、彼女は少しはに
と共に昇る、恐るべき星として。一つの輝きが、見る者によって全く違う物語
を紡ぎ出す。星空の面白さは、そんなところにもあるのかもしれません」
誰よりも強く輝く星は、その身を焦がすほどの孤独と熱を宿しているのだろ
うか。そんな、台本にはない言葉が喉まで出かかったが、僕はそれをそっと飲
み込んだ。それは、僕だけの感傷だ。
「それでは、出口はあちらになります。夜道、足元にお気をつけてお帰りく
ださい。本日は、ご来館いただき誠にありがとうございました」
深く一礼すると、拍手が波のように寄せ、そして引いていく。人々が一人、
また一人と現実の夜へとはけていき、やがてドームの中には僕と、星を映し出
「最後に、皆様の頭上で最も強く輝いていた星のお話を一つだけ」
帰り支度を始めかけた人々が、再び顔を上げる。僕はコンソールのスイッチ
を一つだけ操作し、藍色の空に、ひときわ眩い光点を一つ、再び灯した。
「おおいぬ座の一等星、シリウスです。地球から見える恒星の中では、太陽
を除いて最も明るい星とされています。その名は、古代ギリシャの言葉で『焼
き焦がすもの』、あるいは『輝くもの』を意味します」
強い光は、時に何かを焼き尽くすほどの熱量を孕む。僕は言葉を続ける。
「古来より、人々はこの星に様々な意味を見出してきました。エジプトでは
ナイルの氾濫を知らせる豊穣の星として、ローマでは作物を枯らす真夏の太陽
足元から灯り始め、今まで宇宙を映していた漆黒のスクリーンが、徐々に藍色
へと姿を変えていく。
プラネタリウム《ほしみの天文台》。僕、藍沢湊斗(あいざわ みなと)の
職場であり、僕の世界のほとんどすべてが、この直径18メートルの半球の内
側にあった。
客席のシルエットがぼんやりと浮かび上がる。小さな子供が母親の膝の上で
大きなあくびをし、寄り添っていたカップルが名残惜しそうに身じろぎをす
る。それぞれの現実へと帰っていく前の、わずかな浮遊の時間。僕はその穏や
かな空気が好きだった。
あとがき
第一章 天球儀のシリウス
「――皆様、今宵(こよい)の星空はいかがでしたでしょうか」
静寂を揺らすように、けれど波紋を広げすぎないように。マイクを通した自
分の声が、ドーム型の天井から柔らかく降り注ぐ。ゆっくりと、館内の照明が
目次
その光が届く頃には
第一章 天球儀のシリウス
第二章 予期せぬ来訪者
第三章 色づく世界と小さな影
第四章 届かない光、見えない壁
第五章 砕け散った星屑
最終章 僕たちの光
ら、恋愛に対して臆病になっている。繊細で、自分の想いを言葉にするのが苦
手。
ヒロイン 皆川 星良(みながわ せいら)-二九歳
新進気鋭の映像作家。都会を拠点に活動し、若者からカリスマ的な人気を誇
る。SNSでは常に輝いて見えるが、その裏では創作のプレッシャーと深い孤
独を抱えている。湊斗とは大学の同級生だが、在学中はほとんど接点がなかっ
た。
その光が届く頃には
【本作のテーマ】
手の届かない存在への憧れと切ない想い。そして、その想いを通して自己を
見つめ、新たな一歩を踏み出すまでの魂の成長。見つめるだけの「星」が、や
がて自らを照らす「光」へと変わっていく物語。
【登場人物】
主人公 藍沢 湊斗(あいざわ みなと)-二九歳
海沿いの街にある小さなプラネタリウムの解説員。星々の物語を語ることを生
業としながら、自身は静かで満たされない日常を送っている。過去の経験か